Conversations with God
最近書いてる宇宙人の原点というか、それに関連して補足する意味でこの日本名「神との対話」という本を取り上げたいと思う。1997年の本であるからもう24年前である。そんなに経ったのかと感慨深くなるが、いくつになっても読み直せば届くセンテンスがある。当時、気づかなかった意味が深く認識されることもあるだろうし、新たな視点も発見できる。そんな意味で蛍光マーカーをよく使うが、再度読み返したとき、このセンテンスに感銘を受けたのだと当時の自分の感性を確認することもあるし、どうしてこの文章をアンダーラインしたのか?と疑問に思ったこともある。まぁ、同じ人間でも進化しているので違う感性がその時現れるであろう。その風化というか進化に自分を再確認する意味でもアンダーラインは有効である。
その「神との対話」の中で今でも鮮明に覚えている箇所は「神は自由意志を与えた」「人間の感情の根底は愛か不安かの二つである」というセンテンスが今でも脳に突き刺さっている。よって、現代を支配し続けてきたレプティリアンに代表されるDSもあくまでも彼らの世界基準であれば、「一般庶民をコントロールし搾取する」命題をひたすらピラミッド社会で実施してきたのに過ぎず、超上級地球人(DS)にとっては自分のミッションをやり続けたのに過ぎない。100歳くらいでくたばったデビッド・ロックフェラーは自伝で堂々とそのようなことを書いている。それは私達のミッションだと。俯瞰して僕らから考えてみれば、「人間家畜するなんてとんでもない、悪いことだ」と激怒する内容であるが、ほとんどの地球人は文字が読めないし、そんな情報に触れる機会もないし、あえて調べようという意欲もない。そのようにDS側が仕向けた過程もあるが、単純に馬鹿であるから。
ホリエモンチャンネルの「文字を読めるのは1割から2割」という動画でさらに盲目である人間が多数を占める現実になるほどと感じる機会を得た。それは日本人の3分の1は日本語が読めないってやつにリンクしている。そして、本屋を訪れる日本人は1−2割の人なんだなと理解できた。
話しは戻って、その神の自由意志について。創造主である神があらゆる悪事に制限をかけたとしたら、例えば殺人を犯す現場で相手を殺す瞬間にいきなり稲妻のような電光が走り、その殺人を止めるのではと想像できた。殺人というのが悪という概念なら。しかし実際はそんなことは起こり得ない。普通に殺せるし、そのまま人間の刑法を逃れる者もいる。そして殺人という概念がそもそも、普通に考える人間の概念ではいけないことであるし、神も創造した過程で滅ぶようなものでもないと語っていたが、あくまでも人間の自由意志の尊重は守るという立場から黙認してきたのであろうと僕は考える。よって、神は新しい光の宇宙人の施しを見守るわけでもなく、あくまでも地球人、宇宙人の行動を自由意志を与えたものとして自由に行動させてるに過ぎない。
そして2つ目の「愛か不安か」はなかなか面白い概念で、あらゆる感情の原点はここから出発しているというものである。笑い、思いやり、笑顔は当然「愛」から派生し、怒り、妬み、自分勝手は「不安」から派生する。その感情の概念を理解するとあらゆる行動での自分の感情が客観的にどちらから派生したものか一目瞭然となる。もちろん、その過程を理解しても常に「愛」を選択することができないのが人間であって、その葛藤とかが進化とか生まれ変わる魂の修行となる。常に「愛」を選択できる猛者は悟りを開いた人間と言えるのでは。
そんな理解から、これが正しいとかこれが間違ってるとかいうのはなく、その人間の魂の修行が今の地球人としての努めであろう。
前にこのブログを見る人が誰もいなくても書くと書いたが、よくよく考えると観る人間は1人いる。それは私なのである。過去の私を知るルーツ、それがこのブログなのである。