だからあれほど言ったのに 内田樹

book diary

分割読書をしていると全体像が記憶の低下から見渡すことができない。老化による記憶低下として簡単に片付けるが、その記憶低下を補う意味で、アンダーラインを常時引くように心掛けている。また、読み返す時、どこが重要であったかを確認する意味においても。

タイトルはアドリブで決めたらしく、エッセイをいつものように大幅加筆修正したものを内田樹はよく出す。その思いつきというかその時感じた言葉が結構僕の中では「なるほど!」と感嘆することが多い。よって彼のエッセイは読み続けている。かなり重要であったエッセイもあったが時間が経ったので思い出せない。いつものようにアンダーラインを抜粋していく。

  • 「大人」が消えているー日本の危機
  • 私の個人的な定義でいえば、大人というものは「子供たちの知性的・感情的な成熟を支援できる人」のことである。
  • 日本社会では「管理」したがる人の前にキャリアパスが開かれている。彼らは統治機構の上層に上り詰め、政策決定に関与することができる。
  • 誤解している人が多いが、「高齢者」というのは生物学的概念ではなく、社会的概念である。つまり、私たちは日本をダメにしている人たちのことを年齢とは無関係に比喩的に「高齢者」と呼んだのだ。
  • どういう社会が貧乏くさくないのか。他人の富裕を羨まない、弱者を見捨てない、私財を退蔵せずに分かち合う、公共財ができるだけ豊かになるように努力する。言ってみればそれだけのことである。
  • 私たちにとってほんとうに死活的な重要なのは、われわれの社会内にどれほど豊かな個人がいるかではなく、われわれの社会がどれほど豊かな「コモン」を共有しているかである。
  • 思考停止しているという点では政治家も国民も変わらない。
  • 資本主義はもう限界に来ている。
  • 解決できない問題を抱え込んでも、人は生きていける。生きていけるどころか、その問題を足場にして人間的成熟を遂げることができる。
  • 学ぶということは「別人」になることである。
  • 無知というのは、単に知識が欠けているということではない。そうではなくて、無用の知識が頭に詰まっているせいで、新しい情報入力ができない状態のことを「無知」と呼ぶのである。これはロラン・バトルの定義である。私もその通りだと思う。
  • 学校教育とは子供たちが連続的に別人になることを支援してゆくことである。無知に甘んじ、無知に安住しようとする子供たちを自己刷新のプロセスに導くことが教師の仕事なのである。

なるほどと感嘆する文章に溢れている。別人になるつもりもないが、やはり人間的成熟を断続的にしていきたいものである。新しい言葉の定義、思想に出会うと心が弾む。こういった好奇心が自己刷新には必要なのであろう。この歳になるとすぐ忘れるので、すぐ思い出せるようにブログを打つ。このブログ自体、自分への記憶蘇りのために綴っている。それで十分。

*コモン=本来商品化すべきではない、皆のための公共財