Laidback LIVE
久しぶりにLaidbackのライブに行ってきた。コロナでコンサート開催も激減し、意味のないマスク強要をさせられてまで行きたいくないといった個人的な理由もある。調べてみたら2020年1月以来のライブ観戦で2年半ぶりとなった。
場所は東葛西にある初めてのライブハウスというか、スタジオ的な箱でK-stanzaというところである。初めての場所でいつものように、場所の把握、駐車場の位置など事前に準備して臨んだ。旧江戸川堤防脇にある場所で位置的には東京都と千葉県の国境沿いにある。
14時半の開場には予約した多数の観戦者(といっても5、6人)が訪れ、15,6名ほど、用意されていた椅子に腰掛け開演を待った。しばし開演までスマホで遊んでいると、大型犬が館内を徘徊し、その愛嬌さと巨体に和んでしまった。目が異常に可愛い。人が好きなのか初めての人にも臆することなく、自分の歩みたい方向に突進していく健気さが、しばらく動物と接していない自分には癒しになった。会場も彼(モフモフ犬)の行動に明るさというかリッラックス感が生まれた。この動物(子供)の素直な行動が大人の癒しになるという事実を久しぶりに体験することになった。無垢な人(動物)が動く様子は間違いなく大人の癒しになる。
いつものようにピアノとベースのインストルメンタル曲が始まり、次に井筒香奈江のボーカルが加わるボブ・ディランの天国の扉が始まった。原曲のボブ・ディランは聞かなかったがガンズの天国の扉はよく聴いたので、アクセルの言い回しと彼女の言い回しが頭の中で交錯した。歌詞を追ったが、出だしの音の良さとボーカルの素晴らしさに涙腺が緩んだ。涙もろくなる年齢であると自分でも分かっているが、音楽による感動を抑えることは出来なかった。幸い日常では全くしないマスクが涙と鼻汁を覆い吸収してくれるのは助かった。専門の音響設備で聴く生音は、いつものライブ会場では聴くのとは遥に違い、音の反響と音響設備にマジに感動した。生演奏と言えでも、マイクで拾った音をアンプで増幅し届けるので、その増幅するマイク、アンプが陳腐であるとよく聴こえない過去の経験もあって、余計によく聴こえた。
あまりにもの音の良さとプロの演奏に聴き入った場内は、観戦者も吐く息すら気遣うような静寂さの中に音楽があって、一つの場を形成していた。モフモフ君も聴き入ったのか分からないが、館内を散歩する足跡も聞こえなかった。
Laidbackの音使いは美しい。それはライブ終了後ピアノの藤澤さんにも伝えたが、坂口安吾の美の定義に準ずるものがある。それは「必要やむべからず実質が求めた独自の形態が美を生むのだ。」というとこに付合する。このフレーズにより感動してくれたらいいな的な美を意識したフレーズが一切ない。一に必要、二に必要の最小限の音構成がまさに美を形成している。巷に溢れる音の洪水から一番遠いとこに彼らの音楽がある。たまたま、センター付近で聴けたので、左チャンネルはピアノ、右チャンネルはベース、そしてセンターにボーカルとまさにハイレゾを生で聴く感じではあるのはラッキーであった。
久しぶりのライブで事前に彼らのアルバムを聴き直してみたが、やはり「無意識と意識の間で」と「時の過ぎゆくままに」は名曲である。新譜の「竹田の子守唄」も原曲もよく昔から気に入っていた曲だったのでその発表もあり良かった。「天国の扉」で泣き、「無意識と意識の間」の曲でも泣けた。ラストの曲が終わり、「時の過ぎゆくままに」が聴けなかたので残念とは思っていたが、アンコールで「時の過ぎゆくままに」をリクエストしてみたら届いて、この積極さは好結果をもたらすのだと改めて感じた。ピアノの藤澤さんが楽譜を取りに行くというサービスで、最後の「時の過ぎゆくままに」を聴くことになった。ピアノの旋律と当然ボーカルの井筒さんも凄いのだが、最後に涙腺を潤ませたのは、今は亡き阿久悠の昭和の偉大な作詞家の日本語によるところもある。幼少の時聞いた原曲はフレーズ的なものには共感したが、歌詞まで共感する人生経験も感受性もなかった。50歳もすぎ、ようやく昭和の作詞家の言葉の重みが理解でき、それが高音質と彼女のボーカルで届く時、涙腺を緩ませるのである。
音楽は音を楽しむそのままの意味もあるが、やはり人間には感性という神からのプレゼントがあり、この閉塞感丸出しの今の日本社会で彼女のボーカルはモフモフ君とは違う癒しに届いた。そして改めて音楽の素晴らしさを体感した1日であった。Laidbackの皆さんありがとう、そしてライブ会場、音響を提供してくれたK-stanzaさんありがとう。