大谷翔平
おそらく、2021年に活躍したアスリートで一番知名度のある人物が彼であろう。コロナ禍という世界規模の茶番のために自宅軟禁を強制された日本国民にとっての光はアメリカで活躍する大谷の活躍であった。彼の活躍によって野球少年はもちろんのこと、草野球をする自分、そして多くの日本人にまさに勇気と希望と生きる糧というか、そういうものを身体一つで体現してくれたのが大谷翔平である。
また、日本人のアスリートらしく謙虚で大人というとこも世界に衝撃を与えている。成績はもちろんであるが一人の大人としての行動に賞賛を贈らずにいられない。そもそも世界一の野球であるメジャーリーグで最も活躍したのが彼であるので、世界一のアスリートが日本から生まれた国民的英雄でもある。彼の活躍でワールドカップ予選で苦しんでいる日本サッカーなど、どうでもよくなっている。
最近、草野球を通して新しい野球観を得た。それは野球はその他のスポーツとは違い、一対一の個人的な死闘なのである。ボクシング、剣道、フェンシングなどに通じる武士道みたいなとこである。もちろんスポーツであるので殺戮を繰り返す訳でもなく、ルールによりボールを投げそれを打つという単純な戦いなのであるが、その間合いが刀で斬り合った真剣勝負に似ている。その風景を新しく見つけたとのである。ボクシングと違い、仲間がその斬り合いに参加しているとこは他の競技と比べても珍しいのではないか。
真剣勝負のボールとバットのチャンバラが野球なのである。
彼の記者会見を見てみた。そこに真のアスリートである言葉があったのでそれを紹介したい。よく、世界を目指すアスリートの記者会見でこんなことを最近、見聞きする。「自分の演技で他者を勇気づけたい。自分の活躍で日本国民に元気を与えたい。」そんな言い回しだ。その言葉をアスリートから聞く度に、君は優勝できないと感じてしまう。それはあらゆる感動なり勇気を与える場面では、その勇気を与えた当事者は全然そのことに対して勇気を与えたいだとか思っていない。自分のベストなパフォーマンスをすることによって副次元的に他者に感動を与えることはある。しかし、自分のプレーで感動を与えようと思っている時点で感動は与えられないという基本的な事実に気がついていない。感動はそれを意識して伝えられるものではない。無心に努力し精一杯のパフォーマンスを繰り広げて初めて他者に感動を伝えられる。そういうものである。
彼は勇気づけられたという質問に「ただ、自分のベストなプレーをするだけ。そしてそのプレーに感動を与えられていたらそれは嬉しい」そんな内容だった。どこにも感動を押し売りするとこはない。その無心な思いが世界一の野球選手として今年は君臨できたのだと僕は思う。
坂口安吾が「美を意識したとこに美は生まれない」という言葉を残した。同じように感動は感動を意識したとこに生まれない。そんな超越した意識というか、その真理を既に持っているとこに彼の偉大さがある。ただ、無心に自分の最高パフォーマンスを行う。その姿勢こそ本当のアスリートなのである。
また、来年同じように活躍を見ることはできないかもしれない。身体を酷使したアスリートであるのだから悩まされる怪我とかになるとも限らない。それでもこのバカ政府、バカマスコミ、バカ日本人が自宅軟禁された日本社会で彼の活躍は胸が躍った。非常事態の時、姿をくらます小池百合子やその他同属の政治屋の対極のいる日本人が彼なのである。大谷翔平が存在するだけで我ら日本人は同属としての栄誉を感じることができる。ヒーロー、そしてスーパーマン、その称号に相応しい日本人は彼なのである。