街場の芸術論

book philosophy

新年、明けましておめでとうございます。正月の暇を利用して何気に内田樹の本を購入し、久しぶりに哲学的な深い洞察に、改めて内田樹といういう人は日本語の達人であり哲学者であると感嘆した次第である。冒頭の哲学から、宮崎駿、村上春樹などの芸術家の考察を独自の主観で哲学的に分析し書かれてある。その真意の洞察は驚くものである。そして彼の書く文章は非常に自分と相性が合い共感でき、分かりやすく届く。

・民主主義を目指さない社会

なぜ「表現の自由」は守るに値するものなのか?その問いに対する答えは憲法本文には書かれていない。書かれていないのは、その答えは国民が自分の頭で考え、自分の言葉で語らなければならないことだからである。

民主制国家は「自分の生活を変えることと国を変えることが一つのものであると信じられること」それが民主制国家における主権者の条件なのである。主権者は「自分が道徳的に高潔であることが祖国が道徳的に高潔であるためには必要である」「自分が十分に知的な人間でないと祖国もまたその知的評価を減ずる」と信じている。このような妄想を深く内面化した「主権者」を一定数含めない限り、民主制国家は成り立たない。民主制国家においてはとりあえず一定数の国民が、自助努力がそのまま国力の増大、国運の上昇に結びつくと信じているからである。自分がまず大人にならなければならないと信じているからである。

・言論の自由についての私見

自分自身には直接的利益をもたらせないけど、他者が何かを失い、傷つき、穢されることを間接的利益として悦ぶという言論のありようを言う適切な日本語がある。「呪い」というのがそれである。

私たちの社会は言論の自由が抑圧されている社会ではない。そうではなくて「言論の自由」という概念が誤解されている社会なのだと私は思っている。

全ての言葉はそれを聴く人、読む人がいる。私たちが発語するのは、言葉が受信する人々に受け容れられ、聴き入れられ、できることなら同意されることを望んでいるからである。受信者に対する敬意がなければ言論の自由にはもう存在する意味がないからである。

いつものようにアンダーライン読書の部分を抜粋しただけだが、深い洞察に圧倒されている。宮崎駿分析も鋭さを通り越して新しい知見に出会える。ここまで深く読まないと分からない世界があるのだと感心する。その知見を頂いて、過去の宮崎アニメを見ればさらに深い意味も分かってくるであろう。子供から大人まで楽しめるアニメはその成熟度によって得られる知見が複数あるのである。子供は単純にストーリーに酔い楽しみ、大人はその深い洞察に鑑みるように作られている。宮崎駿を内田樹は天才だと論じた。確かに漠然と天才のような気はするが、自分がリアルタイムで観た天才はイングヴェイ・マルムスティーンのギターだな。上手、プロとは違うさらに上の境地にいる人。そんな天才を見つけられたのならそれはそれで素晴らしい。内田樹は日本語の達人であるが、天才とはまた違う。彼自身も日本語の達人求むような発言もしていた。SNSで見かける陳腐な日本語パレードに日本語の達人を見出すことは難しい。そもそも日本語をある程度熟知して使える人間がいて初めて、日本語の達人と分かることが出来る。その熟知した人間も明らかに少なくなってきている。