知性について

book diary philosophy

久しぶりにブログを書くことになった。WBCがまさかのベネズエラ準々決勝で敗退を受け、その野球について語る場面を失くしたこともある。最近は本屋へ寄るとほぼ、一冊本を買い、すぐ軽く読んで完読せずに本棚へ並べる習慣が後を絶たない。ようはつまみ食い読書である。今日は仕事を予定していたが、休日も旅行、遠出、登山と身体を休めない数週間があり、疲労困憊まではいかないが、本当の意味での休息を怠ってきた。その休息を得る意味でもアドリブで出勤をやめ、本棚に鎮座してある本を出し、今しがた読み終えた。それがこのタイトルである内田樹「知性について」である。内田樹の新書はすぐ買っているものだと思っていたが、調べると去年の5月発行でほぼ一年前の本であった。

相変わらずの内田節が随所にあり、内田節大好きな自分には知性が磨かれているリアル感が楽しい。そもそもこの本は韓国で最初に発売された本を日本版にしたものである。もちろん、作家である内田樹は韓国語を操れないであろうから内田樹大好きの翻訳家が韓国語にした本を逆輸入する形で日本語版としてある。やり取りは日本語であろうことからこの日本語版が正式な言葉の叙述であり、真の意味での内田ワールドが堪能できる。

もちろん、この訳者の韓国人学者のパクさんだったかは、俺以上に内田樹を読みこなしており、その内田節に攻める質問のクオリティが圧倒的に高い。そして日本人でないが故に、日本人では思いつかないとこを内田樹に質問しており、内田樹自身も思いがけない質問に逆に思慮深く回答しているやり取りが実に素晴らしい。「最終講義」以来の内田樹名著と言ってもいい。独断と偏見ではあるが。話しは順序が逆になったが、内田樹大好き、韓国学者のパクさんがオリジナルの韓国本を出そうと提案されたのが始まりらしい。本はやはり内田樹の生活拠点である日本文化が色濃く反映され、次世代を超えた著作を書いてきた著者であっても、文化思想バックグランドが違うと、韓国人はどこに興味を示しているのか分からないと最初は断ったみたいだが、質問形式で回答する本なら出せるということでこの本が刊行された。

中身は日本人では思いつかない視点であったり、逆に日本人以上に内田樹の文章を翻訳する人なので質問事項の内容が深く感心する。そして内田樹も説明名人であり、説明することが好きな学者であるので、その幅広い知識を数々の読書経験から抜擢し、その他者が書かれた文章を紐解いてくとこに流石に学者のキャパ深さも感じる。

僕が内田樹を愛してやまないのはその内田節が非常に心地よく届くからである。同じ文章でも彼以外が書いた日本語文章を読むと窮屈に感じたり、滑らかに読めない。そういったとこが音楽と一緒でその人固有の旋律(文体)との相性が出てしまう。その内田節の中でもかなり深く掘り下げた質問・回答になっており、より深く内田節を堪能でき、その知性に圧倒される。それではいつものようにアンダーラインを抜粋していく。この抜粋にしても少しでも僕の文章が届くのは嬉しいことと内田樹本人も語っているので抜粋で著作権侵害にはならないであろう。まぁ、他の作家では無断で抜粋しているが。

レヴィナスの訳書「唯一神へ至る道には神なき宿駅がある。成人の神はまさに幼児たちの空の空虚を経由して顕現する。」「他の人間に対する有責性のうちに、私の唯一性は存する。私はその有責性を他の誰に委ねることもできない。ちょうど、私が誰かに私の死を代わってもらうことができないように。」

「読者の肺活量」ってわかりますよね。読んでいてぜんぜん意味がわからない文を耐えて読み続けられる時間の限度のことです。

成熟するというのは、連続的な自己刷新を遂げることです。

老いるというのも、これまで一度も経験したことがない心身の状態を経験するという意味では「自分を豊かにする」ものだと僕は思います。年をとるにつれて、自由になってきた。そんな感じがします。

教師の仕事は、子供がどんどん複雑になってゆくこと、表情や語彙や発声が変わって「昨日と違う人」になってゆく様子を喜びをもって観察することだと思います。この先生は自分たちが成長することを喜びとしているということが子供たちに伝われば、教師の仕事としては、とりあえず十分だと思います。

哲学の使命は「人間の知性を活性化すること」

僕は読者の知性を信頼して書くべきだと思ってました。それは教育者としての経験がもたらした確信でした。子供を大人にしたければ、大人として扱う。学生たちに知的に成長して欲しかったら、すでに知的に十分に成熟している人間として扱う。子供たちは自分に向けられた「敬意」を決して見逃すことはないからです。「敬意」は「愛情」よりも「信頼」よりも、遥に伝達力の強いメッセージです。

正直であることによってしか、集合的な知的活動に関与できない。これは僕の確信です。

僕は「学知というものは集合的なものだ」というふうに考えています。僕はその集合的な学知に使ってもらえるかもしれない断片を手作りしてきました。これからも僕は自分の「瓦礫」を手作りしていくつもりです。それが後世の誰かに拾われて、「あれ、この瓦礫はこの建物の材料に使えるかもしれないぞ」と思ってもらえるなら、それにまさる喜びはありません。

最後の抜粋は泣けてきた。瓦礫というのは内田樹の言葉、考え、思考であり、その言葉が不特定多数の人に届きその言葉によりその人が新しい学術であったり、知性の発見であるのなら、それ以上の喜びはありませんと語っています。