日本人の気骨
ほぼ、2ヶ月にわたる臨時春休みを消化して、昨日から日常になった。久しぶりの仕事に、果たして仕事できるか?といった漠然とした不安もあったが、普通にできた。ただ、やはり人はいない。
2ヶ月過ごしてみて、老後の暮らしはこうなのかという疑似体験ができたことは意味があった。毎日が日曜日、しかし散財できず自宅で静かに過ごす。自粛期間はどれだけお金を使わず過ごすことができるか?といったゲームもやってみたが、案外できるなといった部分とやはりお金使って初めて何だろう、気持ちいいというか愉しくなるのはより感じた。働いてお金を使う、そのことが人生の喜びを与えることが改めてわかった。日常生活や健康のありがたさを教えられたことはコロナ騒ぎでの大きな恩恵ではある。
また、この1.2億人の日本丸の乗組員が誘導により、ほとんどの例外もなく突き進む様子にある種の恐怖というか、日本人の根底にある問題を見た気がする。あるジャーナリストが「日本人のマスク着用は、感染を防止することではなく、マスクをしないことで起きる不都合を回避するためにしている」そんな意味のようなことを発言していた。自粛警察による錦の御旗を掲げた暴力主義も垣間見ることができた。
つまり、ある巨大なベクトルが誕生した時、それに追従するのが正義でありそれから離れた者は攻撃してもよい、また自分からそのベクトルが正しいのか?といった自問自答もしない思考停止。そんな現象がこのコロナにはあった。
僕の場合、前のブログにも書いたが一度も1秒もマスクをしないで過ごした。自分なりの理論であったり、それに対する攻撃にも反撃する用意をしていた。ただ、自粛警察による迫害はなく、たまにおばちゃんが怪訝そうに覗き込むだけで終わった。太々しいオヤジに意見するのもリスクがある感じか?それに僕は他人からどう見えてるかといったことにまるで興味がない。自分は自分、他人は他人である。ふと戦時中であったのなら俺は間違いなく逮捕されて牢獄送りであったかなとも考えた。
総括:日本人はリスクを取りたがらない。そしてあるバッシングに対して断固跳ね返してやろうといった気概もない。要は骨がないのである。気骨がないのである。その気骨なしの状態がほとんどの日本国民なのである。