勇気論 内田樹

book diary philosophy

久しぶりに一気読みして終えた。最近は、複数の本を乱読し、なかなか最終章まで辿り着けない読み方をしていたが、一気に読めば、文脈の整合性も記憶のあるうちに繋げられる利点もある。それでも、完読には4、5日の歳月は流れたが。

昨年は本当に、読書するエネルギーが失われ、読んでもすぐ飽きてやめてしまう悪循環が繰り返された。これは、読書するという行動だけでも、相当人体的なエネルギーを使う行為だと、なんとなく理解した。読書好きの自分でもこういう、ハードルのような難しい事が展開される。それゆえ、読書する習慣のない人間に本を贈っても、今さながら「豚に真珠」、「猫に小判」であったような気がする。これ面白いですよと渡されたDVDすら鑑賞できない自分であるのであるから、そもそも書物を渡して読める人間はほぼいないであろう。よほどの活字中毒の人間でなければ。

よって、月間1万円の予算を書物に投入していたが、去年はほぼ全月で予算ショートとなった。2千円の本を5冊読める予算で、年間読書数60冊になり、確かに目標的な読書数ではある。

いつものように重要であったところのアンダーラインを抜粋していく。

勇気が最優先の徳目であった時代に続く徳目は「正直と親切」でした。

スティーブ・ジョブズ曰く「最も重要なのはあなたの心と直感に従う勇気です。心と直感はあなたがほんとうは何になりたいのかをなぜか知っているからです。」

名探偵の推理こそ「論理的にものを考える」プロセスの模範だと思います。

意外に思われるかも知れませんけど、人間が論理的に思考するために必要なのは実は勇気なのです。

「人間が知性的であるということはすごく楽しい」ということです。

「哲学を持っていない人間を信用するな」

父が「哲学を持っている人間」という言葉で言おうとしていたのは、「世間の人々」がどう言おうと、どうふるまうおうと、ことの筋目を通す人のことことだろうと思います。

幼い子供に必要なのは「学ぶ」ことですけれど、そのためには心を開いて他者に接する無防備さがどうしても必要です。

仲裁者は「身銭を切る」覚悟が必要です。引き受ける義理のない痛みを引き受ける者にしか仲裁者の資格は与えられない。

日本人は「意地悪」になりました。

コミュニケーションの本義は、有用な情報を交換することにあるのではなく、メッセージの交換を成立させることによって「ここにはコミュニケーションなしうる二人の人間が向き合って共存している」という事実を確認し合うことにあるからだ。

正直であるためには、知性的、感情的な成熟が必要です。

「嘘をつかない方がいいよ」というのは、人間が長い経験から、嘘をつく人は成熟しないということを学び知ったからだと思います。

懇請する時、人は「情理を尽くして語る」ようになります。情理は人情と道理のことです。

仮にどれほど狭い知見であろうと、自分自身が自己の経験を通じて、自得した知見、確信を以て言える思念や感情を語ることを「親切」と言う。

「ちょっと助けて」という声にならない声を聴き取ること、それが親切なんだと僕は思います。「親切というのは、他者の発信する救難信号を聞き取ること」であるというのが僕の個人的定義です。

助けようと思った相手のことを「子ども」と呼ぶのです。考えないうちに身体が動いていたから「惻隠の心」なんです。

「自分のミッションを探す」ということは、自分の「天職」を探すということです。

就活は自分の天職に出会う上ではまったく役に立ちません。

リーダーの条件は「どうしていいかわからない時に、どうしていいかわかる」能力なんです。

「勇気、正直、親切」という徳目が顧みられなくなって久しいことが、現代日本社会の問題ではないか。

勇気というのは「孤立に耐えること」のための必須の資質です。

自分に非があると思うや、ためらうことなく退くことができる人を孔子は「勇気のある人」の理想としました。

最初に読んでいるうちに僕がコロナ禍の最中、一環としてマスクをしない行動に出たのは、事なかれ社会、集団満足感に対する復讐というか怒りであったと思うが、実はその行動は「勇気」であったのだと今さながら肯定の言葉をもらえたような感覚になった。自説の論を通し、マスク警察には「言論の日本刀でぶっ叩いてやる!」といった身体から溢れる殺気のようなものが功をなし、マスク警察にも一度も遭わなかったのかも知れない。まさに身体を張った3年間ではあった。「勇気」とかそんなたいそれたものではないが、自分の哲学を持って実践したきたと思っている。結局、この自分の哲学を持つというのは、多数の読書による自己形成、考え方の習得なんかがないと得難いものではないだろうか?まぁ僕は天邪鬼体質の恩恵と世間に融合しないという理念があったからだと後から思うな。