ヒトの壁

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久しぶりに読書をしてみた。本来なら毎週1冊の読完を目指していたが。

作者は養老孟司。最近、この人のYouTubeをよく聞いている。気づきというか、普段理解し得ない事柄が出てきて、それを聞いて感心する機会が結構ある。これは哲学者に近い言葉であるから。

いつものアンダーラインを抜粋していく。

国家とは政治体制ではない。実質的には供給能力の総和である。エネルギーがなぜ必要なのかというのなら「意識という秩序形態」が要求するからである。

今は人間関係ばかり。相手の顔色をうかがい過ぎていないか。たかがヒトの分際で調和をはかろうとしすぎていないか。

万有の真理は唯だ一言にしてつくす曰く「不可解」

病院に足を踏み入れなければ、そこで「意味がある」存在にはならないのだ。病は気から、というのか、認識しなければ存在しない。

言葉を理解したり解釈したりする能力の存在が、言葉を使う前提となる。

病院から出るには二つの出口がある。一つは一方通行で、他界へと抜ける。もう一方は娑婆に戻る。

「躁鬱大学」では、人生の悩みとは「他人が自分をどう思うか」に尽きると彼は書いていた。

さまざまな報道を見て感じるのは、この社会はほとんど反応だけしている、ということである。刺激に反応するのは生物のもっとも原資的な行動である。毎回反応だけで済ませているから、簡単な、ある程度でも済むはずの解決もない。そういう解決を求めようとするのは切実さが背景にあるからである。世界のメディアを見ていてなんとなく日本がバカにされているようと感じている根本は、日本側に意志がないということであろう。一億二千万人の人たちが、やむをえない反応だけして生きている。

強い意志を現代日本社会でだれが持っているであろうか。

日本人はひたすら反応ばかりしていて、「そして、みんなバカになった」ということになろうか。

都市社会では人の「意識」が優越する。都市は「ああすれば、こうなる」を優先する意識が作った世界である。

ざっと抜粋するとこうなる。文脈も何もないので面食らうであろうが、抜粋したポイントを見ると普通の人々が見えない事柄が言葉として表れている。この言葉を表現できるとこが哲学者なのである。人間関係をうかがい過ぎて今のような全日本人マスク完全着用の世界が生まれている。もちろん、マスコミの洗脳操作で、マスクなしでは感染を防げないと心底信じきっている人間も数多くいようが、本質的には意味なしと思いながらもこの空気社会日本では仕方なく、マスク着用をマナーという言葉で自己納得させ続けている者も多くいるであろう。それは意志のない日本人にも付合する。そして「他人が自分をどう思うか」が自分の人生の中心となり、自分の人生を歩んでいないことに気づかない。強い意志をだれが持っているであろうか?俺が持っている。この全世界コロナ祭りの最中、他人の視線を跳ね返し、病院と飛行機だけ着用したが、それ以外、警察でもタクシー運転中でも、あらゆる場所で無意味かつ害のあるマスクなどしていない。これはある意味、世間との戦いであったが、未だにマスク着用を強要されたことはない。いや、乗車中に客から注意を受けたが、反論もしくは乗車を断った。乗車拒否と思われるのは嫌なのであえて解説すると乗車された後、客が勝手に降車したという意味である。乗車して行き先を聞き、メーターを入れた後なので、客の方に支払い義務が発生するが、たかだか420円で警察を呼び、自己正当の理由を述べる時間も無駄なのでそのまま降ろしていた。

ある意味「変人」でなければこの空気日本社会で強い意志を持つことは不可能であろう。「変人」大いに結構。僕の人生を歩むだけ、みんな人の人生を歩んでいるから。