サイコパス 小池百合子
「女帝小池百合子」が今朝アマゾンにより配達され、さわりを読んでみた。そして結論がこのタイトルである。
小池百合子をなぜここまで嫌悪するのか自問自答してみた。色々あるが端的にまとめると「知ったかぶりの女が自分ファーストを貫き、それを見破れない愚かな都民(国民)が彼女を支持している、このギャップに怒りを覚える。」それに集約できる。
その怒りに対する情念を燃やせる対象が小池百合子であるのなら、それは逆の意味での魅力であろう。「どうして俺は小池百合子が嫌いなのか?」という問いに対する悪なき好奇心が小池百合子である。
安冨教授と一月万冊の対談が新しい小池百合子観を醸成し面白い。その中での新しい認識がこのタイトルである「サイコパス」である。「サイコパス」の定義はいろいろあるが、小池の使っているサイコパスは自分の理想であったり、歴史を現実からものの見事に乖離させ、妄想を現実と認識させる能力である。それは自分の記憶を自ら良い理想に作り変え、その作り変えた理想を現実と信じる能力である。普通の人ならば、理想と現実とは切り離されたものであり、それぞれを認識できる。それがサイコパス小池は現実を理想と切替、それを微塵にも疑わない肯定を普通にやってのける才能である。常人には理解不能の生き様を貫いていよう。
朝堂院大覚が素晴らしい小池百合子論を展開している。安倍晋三も小池百合子も「嘘」が前面に出ているとこが鼻持ちならない。そのことによって嫌悪という感情に繋がっていると確認できたのは有意義であった。
顔にあるアザのコンプレックス、父親の大風呂敷の張ったり嘘、芦屋という名前だけの高級住宅街外れにある環境など諸々が小池百合子の今を作り上げている。山本太郎のように、ありのままの自分をさらけ出す生き方の方が共感でき強くなれる。そして嘘をつかない生き方は底力が発揮される。嘘で塗り固められた人間が最後に感じるのは孤独だけであろう。
P.S. 直感のタイトルは当たっている。自分ファーストの徹底が小池百合子である。女詐欺師としての映画であるのなら、それはそれで面白いと思う。本はバカ売れしているらしいが、選挙票の増減はあまり変わらないであろう。地上波を見て一喜一憂している輩はそもそも本など読まないから。