カウントダウン

diary social

いよいよカウントダウンが始まるらしい。ずっーと待ち続けてきたので、今回も期待しないでおく。思えば、2020年の大統領選挙から待っている。選挙当日はトランプ大統領の再戦を待ち、なんちゃってバイデン大統領の誕生後は下剋上に期待し、トランプの緊急放送を。

1年弱待ち続け、このコロナ祭りでの奇異の目(マスクをしない行動)にさらされ、売上も撃沈の中、希望はトランプの緊急放送だけであったと言える。バカまっしぐらの多くの日本人には寝耳に水、ブタに真珠、釈迦に説法という論理無用の世界で生きているのでこの疲労感はわからないであろう。

日本国憲法には健康で生活できることが約束されている。それを空気感で支配した日本では半ばマスクが強制され、あらゆるサービス、エリアで当たり前のように規制される。電車では何人ものバカ女が席を外し移動していく。そのことには別に腹は立ててない。ただ、日本人の多くが自分で調べて自分で考え行動することがまるで出来ない現状に腹立たしくなっていた。

例えばこういう事例である。1996年ペルーでの大使館人質事件である。この事件に対し、日本政府は感謝こそ当時のフジモリ大統領に伝えたが、大使館という治外法権エリアを日本政府の断りもなく断行したことに対する謝罪要求がまるでなかった。それに似ている。まず法律に照らし合わせ意見する。その考えが出来ない。みんなが喜んでるから、みんながしてるからという今の状況に非常に似ている。

これは当時、愛読していた村上龍のエッセイでそのことを知らされ勉強したが、まず日本政府はフジモリに謝罪を要求し、そしてその返答を待ち、改めて救出に感謝を述べるのが筋であると。当時の僕にはこのセンテンスが稲妻のごとし身体を突き抜け震撼した記憶がある。まず法律の観点から意見し、そして感謝を伝える。今思えば、人質立てこもりをさせるペルー国のセキュリティの問題が最前列にあり、もし、お隣中国、韓国が日本で同じような事件になればどれだけ罵詈雑言、強制発令されるか想像に難ない。彼らは救ってみても感謝は絶対にしないであろう。それが当時の日本政府は「感謝・感謝」のオンパレード。この事例からも大人でない日本政府に憤りを覚えた。

同じように、法律にも条例にもマスク着用義務などひとつもなく、仮ににこれが制定されたら、基本的人権の侵害であり明らかに憲法違反である。憲法違反であるマスク着用を空気感で強制する国に未来はあるのか?そしてその憲法違反であるロジックで、この99.9%マスクをしている日本社会に意見できる体力と知力、そして身体を張る日本人はまずいない。皆、稲作の村社会日本人の独特の連帯感が醸成され、それに対して考える、意見する土壌もまるでない。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と40年前のビートたけしの標語そのものに、みんなと違う行動は他人の目を気にして行動できない。それが今の日本人である。マスクなんて「百害あって意味無し」という本質を知っている日本人でも俺のような行動はできないと思う。そうしないと組織、会社、学校、コミュニティで生きていけないから。

やっぱり各人が勇気を持たないと変革できない。洗脳社会から自分で考える社会へ。それには読書しかないな、やっぱり。読解力を磨くしか。ってことー(ヘライザー総統真似)